関孝之の生い立ち


 

下記のとおり・・・私のこども時代は、完全に落ちこぼれの劣等生で、いつもまぐれや偶然(笑)?で生きてきたようなものす。しかし今の自分、つまり本当に「好きな事」を見つけてからは、それまでの自分とまったく違っていました。

 

目標が定まれば、人間必死で取り組むものです。自分の夢の為に必死になると、ひとつひとつ実現しだす・・・そしてそのうち何の為?という目的意識が芽生えてきます。すると今度は自分以外の人の喜びが自分の喜びだと気がつき、そこに感動を覚える事になります。この仕事をしていて良かったと、やっと自分を肯定することで、また感動したくなり生涯勉強だと思うようになります。

 

50年ほど生きて来てつくづく思うのは、幸せとは決して物質的なものではなく、自分の心の中にあるもの・・・つまりおのれの心の持ちようだという思いです。自分の経験も踏まえて、これからを生きる世のこどもたちには、何かを押し付けるのでは無く、出来るだけ早く自分の「やりたい事」を見つけられるような環境をつくってあげられれば、どんなに素晴しいか!と思う今日この頃です。 

 

2009.04 関 孝之

 



関孝之(せきたかゆき)
赤ん坊時代

1961年(昭和36)3月19日、宮城県仙台市の繁華街にも近い広瀬川のそばで、次男として産まれる。父・母・兄・私の四人家族の中で育つ。

 

当時サラリーマンだった父と専業主婦の母のもと、木造の古い家に住み、継ぎはぎの服を着て外を飛びまわり、かなりワンパクに過ごしたこども時代・・・決して豊かとはいえないが、今思うと現代と違った妙な豊かさと、高度成長期の前向きな明るさが漂っていた。当時の事を考えると、よくある普通の家庭だったのではないかと思う。

父の家系は仙台商人で、母の家系は福島県相馬藩に仕えた士族であったという事はハッキリわかっている。父の家は江戸の頃から父が小さい頃まで200年ほど世襲で続いたらしいが、当時の私にはすでに見る影もなく、敷地にトロッコがあったとか?あのあたりは関家の土地だったとか?過去の栄光のような話しを聞くだけだった。唯一私が信じてもいいと思うのは、墓石に刻まれたご先祖様の長い歴史である・・・夏草やつわものどもが夢の跡(芭蕉)。

 



関孝之(せきたかゆき)
幼稚園の頃(左から2番目)

こどもの頃は今の子のように、習い事や塾に忙しいのではなく、遊ぶ事に本当に忙しかった。遊んで遊んで遊びまくっていた気がする。お陰でケガは日常の事で、身体中何針縫ったかわからない。なぜか近所のYMCAへ、外国人の先生に英語を習いに通っていたが、コレも遊ぶほうが大事で、ある日行かずに雨の公園で一人で遊んでいる所を母に見つかった。それ以降は行って無いと思う。

 

 

昔は安全だったという事もある・・・しかし自分の子を見ても時々心配になるが、小学校の4年生の頃までにはかなり多くの種類の遊びを体験していて、その多くの体験・体感が自分の今の感性の元になっている気がしてしょうがない。ある場所で我が子がおたまじゃくしの大群を見て、「気持悪い」と近づかなかった時は本当に考えてしまった。

 

関孝之(せきたかゆき)
小学校の頃(自衛隊の演習にて)

小学校入学後は、学校に面白さを見出せず勉強もやる気がなかった。図工と体育以外の毎日の授業時間は、ただただ時間が経つのをじっと耐えていた気がする。当時は不登校の子はほとんどいなかったと思うが、今そういった子の話しを聞くと、とても気持がわかる気がする。もし、あの時間を他の事に向けていたら、自分の人生は大きく変わったかもしれない・・・などと、歴史にあるはずも無い「もし」を、教育とは何か?という思いと共に考える事がある。

 

 

この頃、父が仕事でアメリカへしばらく渡航する。固定相場で1ドル360円、沖縄へはまだパスポートが必要な時代である。帰国後、大量の写真や絵葉書・パンフレット等々、はじめてナマのアメリカを実感した。特にディズニーランドの数々の資料に釘付けになり、いったい何度眺めたかわからない。今と違って遠い国、海の向こうへの憧れを強烈に抱いていた。

 

小学校5年生の時には、父が家を建てたため郊外の学校に転校する。同じ市内であったが、学校の雰囲気の違いにカルチャーショックを受ける。しかしどちらの学校でも、ともだちだけは多かった気がするし、今でも一生の財産になっている。

 



関孝之(せきたかゆき)
中学の頃(手前中央)

中学になると、小学校後半から非常に興味を持って勉強していた英語の授業に、面白さを感じるようになった(興味が有ったのは会話だが)。しかしある時、テストの点数が100点じゃない事を、英語教師に問いただす為に教員室へ行くと・・・答案に書いてある英文の「t」(小文字)の字が、私が教えたものと違うと言われた事にショックを受け、またもや学校にやる気を無くしてしまう。数十年経った今でも、アレは間違いじゃない!と時々思いだす事がある(笑)。

 

 

中学では、バレーボール~体操~バドミントン部(面白いと思い一番長く所属した)と渡り歩いた。また同時に写真もやっていた。部活は担当の教師に何を言われても、自分に合わないと思うとさっさと見切りをつけた。教師から見ると、実に教育的に良くない?生徒であったが、コレも自己主張の強い父の教育のたまもの?かもしれない。

 

関孝之(せきたかゆき)
高校時代友人と旅行(奥)

高校は父の出身校と、二つ上の兄の在学しているミッション系の学校を受験。その志望動機を今思うと、ほとんど自分でしっかりとは考えていない、なんてヤツだと思う。自分ではどちらも落ちるのでは?と思っていたけれど、結果なぜかどちらも合格してしまう。兄が居るほうが何かと便利?かという思いもあり、父にゴメンと言ってそちらへ入学。父は自分の出身校に私が合格した時、あまり見た事が無い様な嬉しそうな顔をしていたのを、今でも思い出す・・・

 



関孝之(せきたかゆき)
学園祭でジャズの演奏1番左

高校入学後、クラスで最初に知り合った友人が化学オタクで、ただ流されるように化学部に所属し、放課後は化学室で妙な実験の数々に付き合うハメになる。その後隣の席になったJAZZオタクの友人の影響で、放課後は化学室へは一切行かずに大人びたJAZZ喫茶に入り浸るようになる。クラリネット・アルトサックスと、狂ったように楽器の演奏にのめり込み、友人数人とバンドを結成。学園祭や学校の行事などでも演奏させてもらい、まさに今思うと青春の1ページという思い出となった。

 

また高校時代は、強くなりたいという思いがとても強く、極真会の空手道場へ密かに通っていた。コレは他と違って完璧に自主的に始めたものと言っていい!右のコブシは今でもツブレ、道場でケガした鼻は、気をつけないと今でも少しの衝撃で鼻血が出てしまう。(笑)

 

関孝之(せきたかゆき)
学生時代の芋煮会(中央)

大学へは、付属高校に通っていたので高校の成績で推薦入学。毎日友人達と本当に良く語り合い、良く飲み、良く遊んだ。20の夏、こども時代からの憧れのアメリカに行こうと思い立ち、友人と連れ立ってロサンゼルスへ飛ぶ。荷物は、パスポートなどの必需品以外は・・・Tシャツ2枚・パンツ2枚・歯ブラシ程度であった。トランジットのハワイからスグにやってしまった・・・ひと月間の笑えたり笑えない数々のエピソード・・・珍道中を書き出すと、もの凄い量になるのでここでは割愛する。しかし、このアメリカが後の自分の人生の考え方に、大きな大きな影響を及ぼす事になる。

 

 

この後は後日また書きたいと思います!

現在に近くなりますので、ひとまず仕事経歴をご覧ください。

 

 

▶ 仕事用の経歴はコチラ(オフィスサイト略歴へ) 



 

その後の写真を数枚・・・ ↓

 

繁盛店売れる店のコンサルタント関孝之
商事会社時代青森ねぶた祭にて(右)
繁盛店売れる店のコンサルタント関孝之
方向転換後あこがれの師匠の事務所にて
繁盛店売れる店のコンサルタント関孝之
独立3年後自由が丘の事務所にて

いろいろな国も見てまわりました・・・下記は、デザイン学校時代(1986)にヨーロッパを50日程貧乏旅行した時のもの。当時私は25歳・・・若いって、それだけでいいですね。